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愛宕の火祭り

1200年の神事・600年の歴史

愛宕の火祭り
1、米沢「愛宕の火祭り」の歴史
 米沢市の中心部にある上杉神社周辺から南西部に目を向けると屏風のような斜平山(なでらやま)の眺めを遠望できます。 その斜平山の右手に稜線を追うと高い杉が茂った森が見え、その木立に囲まれたところに愛宕神社、羽山神社奥の宮があります。 その麓には両神社の口の宮があり、周辺には90もの神社仏閣・小祀・石碑が祀られ、霊験あらたかなゾーンでもあることがわかるでしょう。 さて、その周辺に足を運んでみましょう。米沢の夏祭りの「愛宕の火祭り」の里に。 上杉神社から歩いて20分あまり、目の前には標高559メートルの愛宕山。周辺には田園が広がり麓は肥沃な畑と果樹。 遠山町にある石碑から山に向かう参道が連なります。両脇を畑に挟まれた坂道の参道を登ると広場にたどり着き、 左手に愛宕・羽山両神社の社務所と社殿が見えます。 さて、愛宕神社の本社は京都の愛宕神社ですが、伊邪ナミノ尊(いざなみのみこと)(伊勢大神の母神)を中心に土の神、 水の神、食物の神など 五柱の神が祀られています。本社の境内にある若の宮の三柱の中心に伊邪ナミノ尊の子にあたる軻遇突智命(かぐつちのみこと) (防火の神)が祀られており、8月1日に参拝すると千日の参拝に匹敵する効能があると言われています。 元は、山城国(やましろのくに)と丹波国(たんばのくに)の国境にあり、平安都の西境を守備する道租神(サカエノカミ)の性格があり 地蔵信仰と集合していました。また高山にあり修験者が修行し太郎坊天狗の伝説も生まれ、 武士の信仰が厚く全国に広がったのが愛宕信仰といわれています。米沢の愛宕神社には軻遇突智命が祀られております。
2、上杉家の愛宕信仰
 歴代の米沢の統治者であった伊達家、上杉家が、この米沢の愛宕神社に崇敬の念を払い続けたのは そこにも理由があったものと思われます。 伊達政宗が天正16年(1588)に愛宕の尊像を京都の本社から頂き、12月24日に米沢の愛宕山に参詣、この年の春、 風流人政宗はホトトギスの名所「遠山」を訪ねたことが史実にあります。  また上杉家2代景勝公が慶長6年(1601)に会津から米沢に入城し、地蔵院を別当(祭祀)に司り、 三年後の慶長9年には愛宕・羽山両神社の 社殿を建替えたとされています。この頃、景勝公が愛宕の尊像を神社に奉納したと考えられています。  以来、三代定勝公が社殿修造、4代綱勝公においては社殿再建と続き、上杉家が寄せた崇敬の念の深さを物語っています。  幕藩政治に終わりを告げた頃の14代茂憲公は米沢城の大太鼓を愛宕神社に奉納し現在も使われています。 実はこの太鼓は大阪の陣に上杉景勝公が徳川勢に加勢したとき、大阪城からの戦利品で家康公から頂いたという伝えがあるものです。  上杉鷹山公の時代には領民が干ばつによる不作に苦しんでいたときの明和8年(1771)、当時、21歳の鷹山公が愛宕山の山頂で 雨乞い祈願をされたことは有名な話ですが、翌々年は家臣と共に、さらに翌年は農民、 町方の家臣にも呼びかけ愛宕山への登拝が続けられました。 麓に多くの仏閣、神々を抱え置賜平野を一望できる山頂で、当時の人々が天と地への信心を表した姿が浮かんできます。
愛宕の火祭り
3、神事の火祭りから民衆の火祭りに
ただいま作成中です。
愛宕の火祭り
4、夏の上杉祭りにとの思い高まる
現在作成中です。
愛宕の火祭り
5、祭り復興の主役の子供たち
現在作成中です。

資料提供
西部の火祭りの会会長 森 良一 氏(モリ企画印刷代表)
mori001@green.ocn.ne.jp
米沢市観光キャンペーン推進協議会
TEL 0238−22−5111

お問い合わせ
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米沢市商工観光課 TEL 0238−22−5111
米沢観光協会 TEL 0238−21−6226
置賜広域観光案内センター(ASK) TEL 0238−24−2965

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